1917年の日本公開映画(1917ねんのにほんこうかいえいが)では、1917年(大正6年)1月1日から同年12月31日までに日本で商業公開された映画の一覧を記載。作品名の右の丸括弧内は製作国を示す。
記載の凡例については年度別日本公開映画#凡例を参照
解説
1917年は日本で映画検閲が本格的に開始された年である。当初は映画を対象とした統一された事前検閲制度は整備されておらず、舞台における検閲規則である劇場取締規則に基づく臨検席が設けられていたほか、各地の警察署がばらばらに上映取締を行っていた。各府県の活動写真興行取締規則が制定され、東京に於いては1917年7月より警視庁が統一してフィルムの事前検閲を行うことになった。フィルムの事前検閲の他に公開の認可制、甲種・乙種のレイティング、男女別席、活動弁士の免許・鑑札制などが盛り込まれた。これらの取締には映画産業の発展に対する権力側の様々な新しい対応が盛り込まれているものの、府県単位の取締という地域主義的なあり方を引きずっていた。この体制は映画が全国的に普及した後の1935年に内務省警保局に映画検閲権が移るまで続いた。
撮影技術にも変化が起き始めていた。帰山教正は1917年に映画理論書『活動写真劇の創作と撮影法』を著した。帰山はこの年のうちに天活の社員となり、天活の普段の作風とは異なる、輸出に向く映画の制作を開始した。その所産として翌18年に公開されたのが「生の輝き」と「深山の乙女」であり、この二作の制作過程では外国映画では普通に行われていたシナリオ制作、本読み、女性役に女形ではなく女優を起用する、クローズショットやロングショットなどの手法を起用した初めての日本映画であった。
また、1917年は日本で商業アニメーションが始まった年でもある。いわゆる「活動写真」などの後のアニメーション産業とのつながりが明らかでない玩具映画・巡回興行向けアニメーションフィルムを除くと、下川凹天、北山清太郎、幸内純一らが制作し1917年に公開された一連のアニメーション作品が日本のアニメーション映画の起点と位置づけられている。この三人はそれぞれほぼ同じ時期に、互いに独力でアニメーションを制作したため、三人ともが日本におけるアニメーションの創始者とされる。
作品一覧
出典
参考文献
- 奥平康弘「映画と検閲」『講座日本映画2 無声映画の完成』岩波書店、1986年。
- 佐藤忠男『増補版 日本映画史1』岩波書店、2006年。
- 津堅信之『日本初のアニメーション作家 北山清太郎』臨川書店、2007年。
- 永田哲朗編『日本劇映画総目録: 明治32年から昭和20年まで』日外アソシエーツ、2008年。
- 畑暉男編『20世紀アメリカ映画事典: 1914→2000日本公開作品記録』カタログハウス、2002年。
- 山口且訓、渡辺泰『日本アニメーション映画史』有文社、1977年。
外部リンク
- 1917年公開作品一覧 - 日本映画データベース




